日本人と英語(外国語)
初等教育で英語の授業が導入されたが、英語よりも在日外国人と交流したり、他国の文化を知る授業を優先さ
せる方が良いのではないだろうか。それぞれの小・中学校と高校の生徒と教職員の内、何人が外国人や他国と
関わる日常生活を送っているだろうか。全体の1割から2割いれば十分ではないだろうか。これは英語を話せ
る大人が少ないという現状が物語っているだろう。一日の大半を過ごす学校以外に英語を使う機会がないので
ある。このような人達は英語が話せないからと言って生活に支障がある訳でもない。「グローバル時代で英語
は必要」という声があるが、日本人にとっては「必要」ではなく「話せれば便利」なのである。
ヨーロッパや東南アジアでは英語が広く通用したり、多言語に対応していることを挙げ、「日本人に英語が浸
透していない」、「英語が通じるところが限られる日本は世界より遅れている」と指摘する人がいるが、国と
国との距離が近く、社会のあらゆるところで他国の人と共存する中で言語が必要とされる地域を、異文化に興
味ある日本人が海外に出るか、日本に興味ある外国人が日本に入るかの一方通行に偏った島国と比較するのは
土壌が違う。
日本社会の特徴を考慮すると、英語、外国語の必要性を説くのよりも、異文化が息づく事実を実感させる方が
効果的ではないだろうか。あらゆる国の人が日本で暮らし、母語を教える人、自国の食文化でビジネスをする
人、日本の企業で働く人がいる。同じように、それらの国と関わる日本人がいる。都道府県の主要な図書館や
書店には世界中の様々な言語の学習書や辞典が揃っている。過激な考え方を持つ人を除き、異なる人種や文化
をめぐる対立はない。このように多様性を体感できる可能性はいくらでもあるのだが、その機会に恵まれない、
その可能性があるということも知らない人がいる。外国語を話せる日本人は、必要に迫られて学んだ人よりも、このような環境で異文化に興味を持った人の方が多いのではないだろうか。
日本では英語を知らなくても生活できる。同じことは、英語圏以外の国なら大抵当てはまる。英語に興味が
ない、または話せない人が「日本から出る必要がないので英語を知らなくても良い」と言うのは現実である。
たとえ近所に多くの外国人が暮らし始めたからといって英語か彼らの母語を学ぶ必要はないのである。話せ
れば意思疎通が円滑になるということである。企業も海外進出や外資系による買収を除き、国内のみの取引
で成り立つ。個人も企業も外国語を習得するのは意思、興味または状況に応じて迫られた必要性次第である。
この環境で英語の必要性を力説するのは、電気が通っていない砂漠で暮らす民に電化製品とインターネット
の利便性を説くようなものである。異なる言語を知ることで異なる国の人と交流できるが、外国人と交流し
たり、異文化を体験する機会が乏しい生活で外国語習得の重要性を説いても、理解を得るのは難しい。
日本文化を海外に発信する政府主導の事業「クールジャパン Cool Japan」が活発化しながらも、英語の必要性
は訪日・在日外国人との接触に重点を置いた「受け身姿勢」である。「外国人といつ接触しても対応でき
る」というのを目的としているのだろうが、現時点で外国人と関わる生活を送る人は少ないのだから、その
必要性はなかなか伝わらない。普段の生活で外国人と関わる機会がない中で勉強し、学んだことをいざ接触
する機会がくるまで維持するのは難しい。もともと私生活や仕事で外国語を使っている人が、見知らぬ外国
人に声をかけられても対応できるのとでは次元が違うという意味である。外国人対応を目的とした学習であ
れば、在日外国人に地元の街を案内したり、地元の文化を紹介するという能動的な学習に取り組んだ方が
外国語の実用性を理解できる。
「日本人は英語を話せない」、「他国(特にヨーロッパ)の人は英語を話せる人が多い」という声を幾度も
見聞きしたことがあるが、これには疑問がある。英語しか話せない人が留学先の英語圏で英語を話せる世界中
からの留学生と交流したり、他国の大都市の観光地や宿泊施設のみを訪れたことで錯覚し、英語を学ぶ必要が
ない日本人と比べているのではないだろうか。私は英語をはじめ、多言語を通してヨーロッパの様々な国と付
き合いがあるが、英語を話せない人がいくらでもいることを実感している。観光大国のイタリアにも英語が全く、殆ど通じない場所が多数ある。訪日外国人の中には英語を話せるヨーロッパ人が多いが、彼らも自国では
日本と同じく少数派に入る。2012年にEurostatがヨーロッパ各国の25歳から64歳を対象に行った調査によると、
しっかりとした英語を操れるフランス人は13%、イタリアは7.1%であった。私自身の両国とのつながりから納得
できる数字である。日本よりも外国人と接する機会が多く、外国語教育にも重点を置いていてこの割合である。また、EUのエラスムス奨学金制度でイタリアで学ぶ留学生を対象に行ったアンケートでは、イタリアで英語を
使う必要があると答えたのはたったの1.4%で、46.6%が全く役に立たない、53%が役立つが必ずしも必要ではな
いと答えた。上記の二つのリンクは各国の新聞記事であるが、同じことを英語または日本語で書かれた記事が
ない限り、英語しか話せない日本人は現地の実情を知ることはできない。それなのに「ヨーロッパの多くの
人達が英語を話せる」と言う。
先に「受け身姿勢による英語習得」と書いた理由は、「日本人が外国人に100%合わせなければいけない」、
「英語を話せない日本人が悪い(負い目がある)」という考えや根底にあるからである。そこを英語教育の
業界やメディアが「英語が必要」と煽るのである。旅行、留学、就労にしろ、異国に来る・渡るからには現地
の言葉を使おうと試みるのが当然であり、地元の人も相手に歩み寄り、互いが言葉の壁を乗り越えるのである。
日本人にとって英語・外国語は「必要」ではなく、「使うことができれば便利」であるの方が理解されるのでは
ないだろうか。
せる方が良いのではないだろうか。それぞれの小・中学校と高校の生徒と教職員の内、何人が外国人や他国と
関わる日常生活を送っているだろうか。全体の1割から2割いれば十分ではないだろうか。これは英語を話せ
る大人が少ないという現状が物語っているだろう。一日の大半を過ごす学校以外に英語を使う機会がないので
ある。このような人達は英語が話せないからと言って生活に支障がある訳でもない。「グローバル時代で英語
は必要」という声があるが、日本人にとっては「必要」ではなく「話せれば便利」なのである。
ヨーロッパや東南アジアでは英語が広く通用したり、多言語に対応していることを挙げ、「日本人に英語が浸
透していない」、「英語が通じるところが限られる日本は世界より遅れている」と指摘する人がいるが、国と
国との距離が近く、社会のあらゆるところで他国の人と共存する中で言語が必要とされる地域を、異文化に興
味ある日本人が海外に出るか、日本に興味ある外国人が日本に入るかの一方通行に偏った島国と比較するのは
土壌が違う。
日本社会の特徴を考慮すると、英語、外国語の必要性を説くのよりも、異文化が息づく事実を実感させる方が
効果的ではないだろうか。あらゆる国の人が日本で暮らし、母語を教える人、自国の食文化でビジネスをする
人、日本の企業で働く人がいる。同じように、それらの国と関わる日本人がいる。都道府県の主要な図書館や
書店には世界中の様々な言語の学習書や辞典が揃っている。過激な考え方を持つ人を除き、異なる人種や文化
をめぐる対立はない。このように多様性を体感できる可能性はいくらでもあるのだが、その機会に恵まれない、
その可能性があるということも知らない人がいる。外国語を話せる日本人は、必要に迫られて学んだ人よりも、このような環境で異文化に興味を持った人の方が多いのではないだろうか。
日本では英語を知らなくても生活できる。同じことは、英語圏以外の国なら大抵当てはまる。英語に興味が
ない、または話せない人が「日本から出る必要がないので英語を知らなくても良い」と言うのは現実である。
たとえ近所に多くの外国人が暮らし始めたからといって英語か彼らの母語を学ぶ必要はないのである。話せ
れば意思疎通が円滑になるということである。企業も海外進出や外資系による買収を除き、国内のみの取引
で成り立つ。個人も企業も外国語を習得するのは意思、興味または状況に応じて迫られた必要性次第である。
この環境で英語の必要性を力説するのは、電気が通っていない砂漠で暮らす民に電化製品とインターネット
の利便性を説くようなものである。異なる言語を知ることで異なる国の人と交流できるが、外国人と交流し
たり、異文化を体験する機会が乏しい生活で外国語習得の重要性を説いても、理解を得るのは難しい。
日本文化を海外に発信する政府主導の事業「クールジャパン Cool Japan」が活発化しながらも、英語の必要性
は訪日・在日外国人との接触に重点を置いた「受け身姿勢」である。「外国人といつ接触しても対応でき
る」というのを目的としているのだろうが、現時点で外国人と関わる生活を送る人は少ないのだから、その
必要性はなかなか伝わらない。普段の生活で外国人と関わる機会がない中で勉強し、学んだことをいざ接触
する機会がくるまで維持するのは難しい。もともと私生活や仕事で外国語を使っている人が、見知らぬ外国
人に声をかけられても対応できるのとでは次元が違うという意味である。外国人対応を目的とした学習であ
れば、在日外国人に地元の街を案内したり、地元の文化を紹介するという能動的な学習に取り組んだ方が
外国語の実用性を理解できる。
「日本人は英語を話せない」、「他国(特にヨーロッパ)の人は英語を話せる人が多い」という声を幾度も
見聞きしたことがあるが、これには疑問がある。英語しか話せない人が留学先の英語圏で英語を話せる世界中
からの留学生と交流したり、他国の大都市の観光地や宿泊施設のみを訪れたことで錯覚し、英語を学ぶ必要が
ない日本人と比べているのではないだろうか。私は英語をはじめ、多言語を通してヨーロッパの様々な国と付
き合いがあるが、英語を話せない人がいくらでもいることを実感している。観光大国のイタリアにも英語が全く、殆ど通じない場所が多数ある。訪日外国人の中には英語を話せるヨーロッパ人が多いが、彼らも自国では
日本と同じく少数派に入る。2012年にEurostatがヨーロッパ各国の25歳から64歳を対象に行った調査によると、
しっかりとした英語を操れるフランス人は13%、イタリアは7.1%であった。私自身の両国とのつながりから納得
できる数字である。日本よりも外国人と接する機会が多く、外国語教育にも重点を置いていてこの割合である。また、EUのエラスムス奨学金制度でイタリアで学ぶ留学生を対象に行ったアンケートでは、イタリアで英語を
使う必要があると答えたのはたったの1.4%で、46.6%が全く役に立たない、53%が役立つが必ずしも必要ではな
いと答えた。上記の二つのリンクは各国の新聞記事であるが、同じことを英語または日本語で書かれた記事が
ない限り、英語しか話せない日本人は現地の実情を知ることはできない。それなのに「ヨーロッパの多くの
人達が英語を話せる」と言う。
先に「受け身姿勢による英語習得」と書いた理由は、「日本人が外国人に100%合わせなければいけない」、
「英語を話せない日本人が悪い(負い目がある)」という考えや根底にあるからである。そこを英語教育の
業界やメディアが「英語が必要」と煽るのである。旅行、留学、就労にしろ、異国に来る・渡るからには現地
の言葉を使おうと試みるのが当然であり、地元の人も相手に歩み寄り、互いが言葉の壁を乗り越えるのである。
日本人にとって英語・外国語は「必要」ではなく、「使うことができれば便利」であるの方が理解されるのでは
ないだろうか。